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トリビアの泉を見ました。見るのはバレンタインネタがあったやつ以来だから2ヶ月弱ぶり。見てて気になったことがあったのでちょっと。

お受験教育を受けている子供達が10円玉を落とした時に「落としたのは 100円玉か500円玉か」と聞かれたら 童話「金のオノと銀のオノ」と同じく正直に答えるのは100人中○○人

というトリビア。なんだかとっても後味の悪そうなトリビアになりそうだなと思ったら案の定というかなんというか、非常に後味が悪い企画になってしまっていた。この企画に参加することをokした親はどういう神経をしているのだろうとも思った。この企画は幼稚園児に対して行われたわけですが製作者側が幼稚園児に対して何も考えていないというのが見て取れたと思う。トリビアの泉は人間の知的好奇心を満たす番組であるのはわかるがこれはやりすぎじゃないかな〜と思ったり。
あれだけ不思議空間に子供が放り込まれたら子供は普通混乱する。大した理由も無く10円を渡される、何故か指定された駄菓子屋でしかその10円を使うことができない、たった10円だから駄菓子屋に置いてある物のほとんどが買えない、店員がわざとらしくお金を落とす、そして出て来るのは何故か100円と500円。これは子供に対して物凄いストレスになる。ボウケンジャーのシールが買えなかったと泣いていた子供がいたけどあれはシールが買えなかった事だけに泣いているのではなく不思議空間に混乱して起こったストレスが元の原因だったと思うのは考えすぎかな?そしてシールが買えなかったのがトドメになった、と。
正直に答えた子供はまだいい。でも100円、もしくは500円を選んでしまった子供はあの後どうなるのだろう。買い物から戻ってきた時親に説教を受けている子供が何人かいた。あれはよくないと思う。あんな状況で500円を選んだからって責められるのはおかしいし、責められた子供はひどく傷つくと思う。実際ああいう訳がわからない不思議空間に迷い込んでしまったら正常な判断をしろというのは酷過ぎると思うし、それで責められるなんてかわいそう。子供の心に一生残る傷を与えかねない、このような企画はどうよ?と思うわけで...




さて、トリビア批判はこの位にして本題。そのトリビアを見てちょっと思い出した、思い出話でも。小学1年生の時の話です。僕は見知らぬ3人だったか4人だったかのなんか悪そうなグループに捕まって万引きの計画に加担させられました。加担しないと殺すとのこと。お〜こわっ。まあ余裕でばれて呼び出しをくらったわけです。そこで僕は正直にと言いますか、自己保身と言いますか、「脅されてやったから僕は悪くない」と今思えば中々に勇気のあることを言いました。たしかに僕は悪いことをした。でも自分の意思でやったことではないしどうしようも無かった、という言い分。で、その結果猛烈に怒られたというオチに繋がるわけですね。
ちょっと暴論になってしまうかもしれませんが、今でも僕は全く悪いことをしたとは思っていません。やらなきゃやられるわけですからそりゃあやるよ、って感じです。それにも関わらず僕を怒った先生の神経を逆に疑います。あんたは死を選ぶんですか、そうですか、って。
でも実際世の中こんな感じであるから仕方が無いとも思います。例えば子供がジュースをこぼした時親が「何でこんなことをしたの?」と聞く光景を何度も見たことがあります。もちろん理由なんてまずありません。ただのアクシデントなのですから。子供はごめんなさいと言うかもしくは黙り込みます。ごめんなさいと言うと「悪いと思っているのに何故こんなことをしたのか」と言い、黙り込んだ子供に対して親は「黙っていたら理由がわからないでしょ」ととんちんかんな事を言ってきます。ジュースをこぼしたのは子供で子供は悪いことをしたというのも理解しています。説教をしている人を見ているとあまりにも相手のことを考えてないと思ってしまうのです。あとその状況を全く把握できてない。
もちろん正しく、説得力のある説教もあると思いますが、基本的に説教とは理不尽な怒りを弱者に問答無用でぶつける、そんなものだと思っています。説教するときには注意が必要ですね。理不尽に責任を負わされることは物凄いつらいことですからね。







と、普段から説教されまくりの大学生が言ってるわけですが、やっぱこれって暴論なのかな?